曼荼羅寺と出釈迦寺を結ぶ道の中ほどを、火上山(ひあげやま)にむかう小さな標識を目印にみかん畑を上っていくと、讃岐平野と瀬戸内海を一望できる道に出ます。この丘の中腹に西行庵はあります。
歌僧・西行法師が四国を訪れたのは仁安2年(1167年)、50歳の時でした。善通寺では玉泉院の久松庵とこの「水茎の岡」といわれる山里に庵をかまえました。当時住んでいた小さなお堂は朽ち果ててしまいましたが、その後3回再建され、最近では昭和63年(1988年)に地元有志が浄財を集めて再建、平成元年(1989年)の西行800年忌とともに落成式を行いました。
西行法師も踏みしめた小さな石の橋を渡ると竹藪の中に二間四方の小さな庵があります。そばには西行法師の歌が刻まれた歌碑と西行法師を偲(しの)ぶ中河与一作の歌碑がひっそりと建っています。
西行法師(さいぎょうほうし)
西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人で、「新古今和歌集」には94首もの歌が収められています。平将門を討った藤原氏の子孫として富裕な武門の家に生まれ、若くして鳥羽院の北面の武士となりました。院に目をかけられますが、23歳で突然に出家します。しばらくは吉野山の麓などにも住み、のちに高野山に入山しました。
50歳の初めには、崇徳上皇の墓参りと弘法大師空海の遺跡をたどり四国へ旅をします。そこで讃岐の地に入り、空海の御誕生所である善通寺のほど近くに庵を結びました。建久元(1190)年、享年73歳で亡くなりましたが、「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ和歌のとおりの最後で、藤原定家や 慈円に崇敬されました。歌集に「山家集」があり、弟子が筆録した「西行上人談抄」も残されています。
「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」