今から2,000年以上前、稲作の文化が日本に伝わった弥生時代には、豊かな水源を求めて人々が集まりました。人々の暮らしはそれまでの狩猟や採集を中心とした生活から一変し、水の供給が容易で耕作生活に適した土地に定住し、村をつくるようになります。現在の善通寺市仙遊町一帯には東西約1km、南北約0.5kmに渡る大規模集落が広がっていたと考えられています。この集落跡は『旧練兵場遺跡』と呼ばれており、これまでの発掘調査により150棟以上の竪穴式住居跡や50棟以上の掘立柱建物跡、土器棺、銅鐸、青銅製のやじり、大量の玉類、丹塗り土器や絵画土器など、多種多様な遺物が見つかっています。
繁栄はその後、古墳時代にもみられます。水が豊富で環境に恵まれた地域は更に発展し、力を持った豪族が現れました。善通寺市にはこれまで400基を超える大小様々な古墳があったと言われており、一部の古墳からは大和朝廷につながる有力な豪族の存在をうかがえる埋葬品が出土しています。
その後、奈良時代には古墳時代から続く有力な豪族・佐伯氏の家系から、善通寺市を代表する偉人・弘法大師空海が誕生し、平安時代には全国に名を馳せる活躍を遂げました。
時を経て、江戸時代には湧水付近に丸亀京極藩の藩主が休憩するための茶屋『永榎亭』が設けられるなど、湧水は時代を超えて人々の暮らしを潤し、支え続けてきました。
明治時代には大日本帝国陸軍第11師団が拠点を置き、軍都へと変遷を遂げます。当時の善通寺村(現:善通寺市)のような、県庁所在地ではない小さな村に陸軍の司令部が置かれるのは異例のことでした。これは、一説には第11師団が騎兵隊を有し、隊員のみならず多くの軍馬を抱えた師団であったため、隊の運営に特に多くの水が必要であったのが理由ではないかとも考えられています。第11師団の拠点が置かれたことで、道路整備や鉄道の開通など、急速に近代化が進むことになりました。
現在の善通寺市内には約80ヵ所ほどの湧水が点在しており、地域の人々からは“出水(ですい)”と呼ばれ親しまれています。農業用水として活用されている他、周りに東屋が設けられ、地域の憩いの場となっている湧水もあります。